今日は、齋藤孝さんの
『声に出して読みたい日本語』を
読んでブログを書いています。
齋藤孝さんの文章は読みやすい。
論理構成が飛躍しないので
非常にわかりやすいのです。
その点、鈴木は論理構成が
すっ飛ぶ嫌いがある。
だから、鈴木はブログを書く時に
一番気を付けているのが
読者が、1回さらっと読んだだけで
意味がわかる文章であり
論理構成なのです。
作家なら、東野圭吾、重松清
佐々木譲、小川糸、池井戸潤
三浦しおん、有川浩、奥田英朗
を、参考にしている。
余談だが、今、音読している
中国の古典である『史記』は読みやすい。
作者である司馬遷が
きっと工夫し努力したのでしょう。
さて、本文、、、
<詩は、朗誦したり暗誦したり
することこそにこそ魅力がある>
→ 鈴木は、今まで、「小説」こそが
文学の最高峰に立つものであると、思っていた。
しかし、このところ、
その考え方を改めている。
と、いうのも、、、
毎日、音読している「詩集」が
素晴らしいのです。
と、言っても、、、
現代詩は評価しないのです。
それなりに「いい」のでしょうけど
何を言っているのか?わからない。
ことばの遊びをしているとしか思えない。
だから、もう音読するのを止めました。
それからは、古典詩ばかり読んでいます。
ゲーテとか、萩原朔太郎とかね。
話しをもどして、、、
詩の何が、素晴らしいのか?と言えば
「言葉」に対しての
感覚、即興性、暗示性、、、
「説明」がいらないほどの
イメージの際立たせ方
詩を読むたびに
「イメージ」が湧いてくるのです。
ただ、そういったものを書く能力が
自分に無いのは自分でもよくわかるので、、、
毎日、ブログを書いて
その代償行為をしているのだと思う。
なぜなら、(明日は書くのを止めよう)と
思っていても、、、
1日の仕事を終えて
自宅のPCに向かうと
自然とブログを書こうとするから。
きっと、何か、表現したいのでしょ。
<現代日本ほど、
暗誦文化をないがしろにしている国は
稀なのではないだろうか。
イギリスでは
シェイクスピアや、バイロンが、
フランスではラシーヌなどが、
学校教育でも暗誦され、
国民の共通の文化となっている。
みなが共通の古典テキストを
暗誦していることによって、
ふだんのコミュニケーションにも
奥行きが出てくる。
何気ない日常のやりとりのなかに、
ふとシェイクスピアが引用されたり、
ゲーテの言葉が引き合いに
出されたりすることによって、
日常の会話が
深い文化・伝統につながり、
豊かな意味が醸しだされる。
世代を超えた共通のテキストを持つことは、
世代間の信頼関係を強める効果がある。
自分が大切に思い暗誦しているものを、
子どもや孫の世代が暗誦し
身体に内在化させているとすれば、
そこに信頼感や安心感が生まれる。
それが古典のよさである>
→ おっしゃる通りだと思う。
昨年の4月あたりから
音読に取りかかった『源氏物語』は
音読が終了するまで
半年も掛かったのです。
その間、光源氏の恋物語に
没頭しました。
『須磨』のところで、
ほとんどの人が読むことを
止めるとは聞いていましたが、、、
確かに、
(その通りだ)と思いました。
だって、おもしろくない(苦笑)
光源氏の恋愛の話しと
宮廷のうわさ話だけですから。
追伸
世の移り変わりが激しい中で
『源氏物語』を最後まで
音読したのは、、、
もしかしたら、日本国内では
鈴木だけかもしれません。
そういう意味では、
ある意味、凄いなぁ~と
自分自身で思うけど、、、
「だから、何なの?」
と、言われると、
返す言葉が無い。(涙)
でも、きっと、「それ」が
古典を読む意味なのでしょう?!
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