「鈴木さん、まちがっていますよ。
大坂城は、信長じゃなくて
秀吉が作ったんですよ、、、」
「確かにその通り。
大坂城は、秀吉が
作ったのは間違いない事実。
でもね、、、
ここ大坂の地政学的利点に
目を付けたのは信長。
と、言いたいところだが、、、
一番初めに
大坂に目を付けたのは
宗教団体である
浄土真宗の本願寺なのです。
だから、信長は大坂を占拠すべく
本願寺をつぶしにかかったのです。
なぜ、信長が大坂にこだわったのか?
それは、地形によります。
ここで、ひとつ、、、
鈴木の体験談を話します。
以前のブログでも書きましたが
春、行われている
井本整体の京都セミナーは、、、
初めは、大坂の地で
行われていたのです。
鈴木の入門は、
今から20年前の
1989年4月のことだが
京都セミナーは、
その年の10月に行われた、と、記憶する。
※その当時の名称は、
「大坂セミナー」です。
なぜ、そんなに明確に
覚えているのか? と、言えば、
(せっかく、大坂に足を伸ばすのだから
京都も見学しようと、、、
7月ぐらいから綿密な旅程を
組んでいたのです。
そして、京都御所の見学が
ちょうどその頃できる時期だったから
見学の事前申し込みをした)
から、記憶に残っているのだと思う。
当時、井本整体の大坂セミナー
前日の夜間練習会は、
天満の『あい粂』という
旅館で行われていたのです。
その旅館の前の道路から
大阪城の天守閣がよく見えました。
仰ぎ見る形でしたので、、、
大阪城は、高台(上町台地)
天満は、低地
に、あるのが「よく」わかりました。
※ブログのサムネイル画像を見てね
つまり、大阪城は
尾根の位置に当たる。
戦略上、『孫子』でも
高台に陣を保て、と言っております。
また、当時は、、、
その当時の地図を見ると
一目瞭然ですが
大阪城に当たる一帯だけが
上町台地にあたり、ほかの地域は
ほぼ湿地帯に当たるのです。
それは、日本書紀にも
記されており、、、
要するに、大阪城の一帯は
地政学的に言えば
権力者にとってみれば
絶対に押さえておくべき「要衝」なのです。
追伸
その後、家康による2回の
攻撃により大阪城は壊滅しました。
その後、家康は、この地を
大名に任せず、江戸幕府の直轄地にしました。
それから、260年ほどして
鳥羽伏見の戦いが起こりました。
慶喜は、堅固なる大坂を捨てて
新しい御世である明治になったわけですが、、、
家康の大坂攻略から
始まった江戸幕府は
結果、慶喜の大坂撤退で
幕を閉じたわけです。
歴史の綾を、感じますね。。。
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