(前回の話しのまとめ)
鈴木好美:中学校1年の3月の話し。
鈴木は、何を勘違いしたのか
「横浜で一番強い野球部」に入部した。
身長が、150センチ前後では
当然のごとく
”補欠”の毎日を過ごしていた。
補欠でも、練習内容は
レギュラーといっしょだった。
守備練習、フリーバッティングまでは。
グラウンドの広さの関係で
補欠がフリーバッティングする
場所もなければ時間もない。
レギュラーが、悠々とバットを
振っている間
我々補欠は中腰の体勢をとって
「ウォーウォー」と声を出す。
そして、スコアブックを書けたために
監督には重宝にされ、選手というより
完全にマネージャー扱いする監督の
仕打ちになかば怒りながら
もんもんと日々を送るのだった。
そこへ、サッカーをやらないかの
暖かい申し出が
小学校時代の恩師からあった。
「渡りに船」とばかりに
野球部に籍をおきながら
サッカーでうさをはらす毎日だった。
ここまでが昨日。
そんなところへサッカーの監督が
”とんでもない話し”を持ってきた。
3月の春休み中に東京の国立競技場で
サッカーの試合をしないか?
(うそだろう)
(ほんとかな)
(出るべきだ)
チームの仲間と話し合いをした。
結局、ミーハーな我々は
”よろこんで出ること”にし
その日から、猛特訓を開始した。
と、いってもコーチがいないから
準備運動やトレーニングをせずに
試合ばかりをしていたのだが。
※この当時は、ストレッチ体操、
トレーニングという概念はなく
どこの運動部でも柔軟体操、ランニング。
そして、悪名高い
”練習中は水を飲んではいけない” だった。
あっという間に試合当日。
監督が、ワゴン車を
どこからか調達してきた。
この監督は、とても変わった人で
当時25歳前後だったと思う。
自分の部屋に我々を
合宿させたりして
ただでメシを
食わせたりしてくれた。
今だったら大変な問題になるが
うちの両親も、友人の両親も
このわけのわからない監督の
アパートでの宿泊も
てんで問題にしていなかった。
ある意味、昭和50年代初期の
”おおらかな、いい時代”だった。
ワゴン車に数人が乗り込み
いざ国立競技場へ。
横浜東口インターから
首都高速道路に乗って
ひたすら北上した。
この際、車のスピーカーから
エンドレスで流れていた曲が
キャンディーズの
『春一番』だったのだ。
私は、はじめて
首都高速道路に乗った。
見る景色すべてが
初めてだった。
高架を走る
首都高速道路から見る
東京の景色に魅了された。
(今でも、日曜日の
東京の景色が一番好きだ)
更衣室で着替え、
国立競技場のピッチに立つ。
この時の感想は
なんて言ったらいいんだろう
。
ピッチから見た国立競技場は
とてつもなく広かった。
・・・・・・
グラウンドを半分にして
ハーフのサッカー場での試合。
相手は、「浦和」の中学生だった。
背はみんな高かったように思う。
自分が低かったからそう思っただけ
なのかもしれないが、、、
その時、こんな声が聞こえてきた。
「あの10番、背が低いなぁ~」
「あれがエースか?」
「油断するな!もしかしたら
めちゃくちゃうまいかもしれないぞ」
※10番は、私のことです。
ゲームが始まった。
始まってものの5分で”10番”に
マークにつく人はいなくなった。
そのうち
「なんだ、あの10番。
大したこと無いなぁ~」
なんていう声が聞こえてきた。
(勝手に期待しやがって、
もともとうまくないわい)
5-0で負けた。
帰りの車中もキ
ャンディーズの『春一番』が
車のスピーカーから大音量で、
それもエンドレスで流れていた。
夕焼けがとてもきれい
だったのを覚えている。
追伸
それからまもなくして
転校した。
サッカーをいっしょにやった
友人たちとはそれっきり離れた。
みんなどうしているだろうか?
あの国立競技場での”思い出”は
みんなの心のなかには
どう写っているだろうか?
もう38年前の話だ。
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