-井本整体横浜室-よしみ整体[鈴木好美]

神奈川県横浜市保土ヶ谷区西谷町766-4ルミエール1階

08.24 絵に対する葛飾北斎の覚悟

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今日は、田中英道さんの著書

『葛飾北斎。本当は何がすごいのか』を
参考にしてブログを書いています。


5年ほど前の事

葛飾北斎の美術館に行った。

※北斎館(ほくさいかん)
長野県上高井郡小布施町にある。

北斎が、晩年の4年間を過ごした場所。

路地がとても美しい町。

また、「栗」の名産地。

和菓子屋で購入した
栗アイスと栗まんじゅうは
濃厚な上品な甘さだった。


そして、、、

葛飾北斎が描いた
猫のデッサンを
染め抜いた手拭いを買った。

その手拭いは、今でも
鈴木の道場で使っている。


その手拭いを見るたびに
葛飾北斎の「仕事」に対しての
集中ぶりを感じ、気合が入る。

 

そんな北斎が

「富獄百景」初編に
北斎の絵に対する
こんな覚悟が書かれている。


こういうものである。


<「私には六歳から
物の形を写生する癖があり、

五十歳の頃から数々の画図を
本格的に発表しようとしてきた。


七十歳以前に描いたものは、
実に取るに足りないものばかりだった。

七十三歳で、 鳥獣虫魚の骨格や、
草木の何たるかをいくらかは悟ることができた。


故に、精進し続ければ
八十六歳でますます向上し、

九十歳になればさらに
その奥意を極めて、

百歳でまさに神妙の域を
超えられるのではないだろうか>


→しかし、北斎の願いは
残念ながら叶えられなかった。

嘉永2年(1849年)4月18日、
卒寿(90歳)にて臨終を迎えた。

※この年、ロシアの作家
ドストエフスキーに
対し死刑判決が出た

 

そのときの様子は
次のように伝えられている。


「死を目前にした北斎は
大きく息をして

『天が私の命をあと
10年伸ばしてくれたら』と言い、

しばらくしてさらに言うことには

『天が私の命をあと
5年保ってくれたら、

私は本当の絵描きに
なることができるだろう』

 

ここで、北斎らしいエピソードを
いくつか上げておく。

参照:ウィキペディア

 

<料理は買ってきたり、
もらったりして自分では作らなかった。

居酒屋のとなりに住んだときは、
3食とも店から出前させていた。

だから家に食器一つなく、
器に移し替えることもない。

包装の竹皮や箱に
入れたまま食べては、
ゴミをそのまま放置した>

→「絵を描く」こと以外には
全く興味を持たなかったのだろう


<人物を書くには骨格を
知らなければ真実とは成り得ない。とし、

接骨家・名倉弥次兵衛のもと
弟子入りして、

接骨術や筋骨の解剖学をきわめ、
やっと人体を描く
本当の方法がわかったと語った>

→ 「絵」を書くことに関しては
一切の妥協を許さなかったのだろう。

 

<おやじなんて子供の時から
80幾つになるまで毎日
描いているけれど、

この前なんか腕組みしたかと思うと、
猫一匹すら描けねえと、

涙ながして嘆いてるんだ。

何事も自分が及ばないと
自棄になる時が上達する時なんだ。>


→ これは北斎の娘から見た
父である北斎の姿。

最後の行にある

<何事も自分が及ばないと
自棄になる時が上達する時なんだ>

は、感動的でもある。

 


追伸
1999年には、アメリカの雑誌である
『ライフ』の企画

「この1000年で最も
重要な功績を残した世界の人物100人」

→ 日本人として唯一86位に
  ランクインしたそうだ。


世界の美術界に多大な影響を与えた人は

「絵」にしか興味を持たない
ちょっと変わった人だった。

でも、それぐらいでないと

他人の人生に影響を与えることは
難しいのかもしれないが。。。

 

 

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