今日は、広岡達朗さんの
『監督論:「人は育つ」ことを
選手に教えられた』を
読んでブログを書いています。
※広岡達朗さんは
巨人軍の中心選手だった。
華麗な守備で人気を誇ったが、、、
後輩に、長嶋茂雄がいたことで
影は薄かった。
しかし、その後、監督として
常勝西武を築き上げた名監督。
今日の話しは、巨人という
日本のプロ野球の頂点に
属していた男が書いたもの。
つまり、巨人の広岡達朗から
どうやって常勝西武の名監督に
はい上がって来たかの
サクセスストーリー。
では、本文を、、、
<私は、読売巨人軍の選手を辞めて、
アメリカの野球を視察しに行った。
帰国後、仕事が無かったので、
大手町のサンケイスポーツに向かった。
伝(つて)があったわけではない。
紹介されたわけでもない。
「運動部長は誰ですか?」と尋ねて、
北川貞二郎・サンスポ運動部長に面会した。
このとき交わした会話は、
はっきりと思い出すことができる。
私はいきなり切り出した。
「広岡ですけど、仕事ありませんか」
「どうしたんだ、仕事って何だ。
お前どうしたんだ」
口ぶりは、ぞんざいだった。
どうしたと言われれば、説明するしかない。
私は、アメリカへ行ったこと、
スポニチとはレポートを約束していたが、
できなくてクビになったことなどを話した。
「分かった、お前、記事書けるのか」
書いたことは一度もない。
「書けます」と、即答できなかった。
「だいたいスポーツ新聞では
評論家に記者がひとり付いていて
話したことを書くんじゃないですか」
昔も今も、このことに変わりはない。
そのことが口を突いて出たのだ。
(スポーツ界の頂点である
巨人軍にいたことで
知らず知らずのうちに
調子をこいていたのだろう)
鈴木は、こういう「勘違い君」を、
昔、接客のバイトをしていた時に、
「さんざん」見てきたのです。
わかりやすいように
ひとつ例を出す。
ある自動車会社のパーティでのこと。
その会社の本社で、
あるパーティーが行われた。
パーティー名は、もう、
ずいぶん前のことだから
正確には覚えていないが、、、
確か、「OBを歓迎する会」
だったように思う。
つまり、退社なさった先輩である
OBをわざわざ本社に呼んで
先輩たちをねぎらうのです。
まぁ~あの頃は、日本がバブルで
「行け行け」だったあの麗しき日々。
だから、会社の財政にも
余裕があったのだと思うが、、、
今では、想像もつかないでしょ。
この会社では、
ちらっと聞いた記憶では、、、
OBがパーティーに
参加するための
・本社までの交通費
・宿泊代
も、会社が負担していたらしい。
※ちなみに本社でパーティーを
やることが最重要に大事なことらしい。
故郷に「錦」を飾る
まぁ~そんな感じかなと思う。
さらに、パーティー担当者を
ひどく悩ませたのが、、、
OBの在職時のポジションによって
・新幹線は、普通かグリーン
・飛行機なら、エコノミーかビジネス
・宿泊なら、ビジネスホテルかシティホテル
の割り当て、だそうだ。
その選別を間違うと、、、
「あいつは部長止まりだった」
「俺は、会社が厳しい時代の課長だった」
「会社に貢献したのは実は俺なのだ」
なのに、あの処遇はなんだ!?
と、後で、ごちゃごちゃ言われるそうだ。
追伸
そんなことを実体験として
知っているので、、、
鈴木は、歳を取っても
「調子こく」ことはないと思う。
ここで思い出すのは、、、
あのD・マッカーサーが言ったひとこと。
「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」
妙に、心に浸み入るコトバである。
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